かよログ

日々感じたことそのままを気まぐれにつぶやきます

やりたいことをやりたいだけやりたい時にやればいい

昨日、帰ったらいつものようにお母さんが用意していたご飯の仕上げをしようとしていた。

でも何だか、それを食べたくなくって(お腹はまぁまぁ空いていたけど…)リビングに居たくなくて、いらないと言って自分の部屋に行き、テレビを見ながらビールを飲んでおせんべいでお腹を満たした。心配した母が「フルーツなら食べれる?」と言って持ってきてくれた。別に食べれないんじゃなくて食べたくないだけなのだけど…と思ったけど、おせんべいだけでは物足りなかったので、それは有難く頂いた。

 

違和感を見逃さない

なんか、食べたくない。お腹はちょっと空いてるけど、気が乗らないから。まるでついさっきまで一緒にいた、園の子どもたちみたいだなぁと、子どもの「なんか嫌」の感覚に共感したりしていた。正確にいうと、母の作ったごはんが食べたくなかった。別に母がいきなり嫌いになった訳ではないし、ごはんがまずい訳でも、昨日の献立が嫌いなものだった訳でもない。

それなのに食べたくなかった。こんなこともあるのだなと思った。「あなたのごはんが食べたくないの」とは言えなかったけど、この違和感を誤魔化して食べるのは嫌だったので、わたしは食べないという自分の欲(?)に従った。

 

欲望のままに行け

子どもって理由なく、なんか嫌になることが多々あって、わたしはなんかそうゆうのそのままでいいじゃん!って思う。嫌なら嫌という欲望に従えばいい。欲望のままいけばいい。遊びたいだけ遊び、食べたい時に食べて、寝たい時に寝ればいい。自分の欲望を全て肯定されたら、みんな悪業をやりたいなんて思わないと思う。そう考えるとわたしの今の職業って無意味だよな〜

でも今の職業的にそんなことを許してしまうと「社会性が〜」とか「集団生活とは〜」とかなって世間的にもたぶん死活問題なんだろうな。だけど心の中ではそう思っている。(だから子どもたち、言うこと聞かないかもね)でも、わたしはこの感覚を消したくない。殺したくないんだ。

 

感謝することと自由になること

先述の件で、なぜ嫌だったのか考えたのだけど、たぶん毎日仕事から帰ってきて当たり前のように母の作ったごはんを食べるというルーティーンが嫌になってきたのだと思う。

当たり前という言葉や感覚が、どうやらあまり好きではないみたいだ。

この歳になって実家でごはん作ってもらうとか贅沢だし、感謝しろよ!と言われるかもしれないけれど、感謝は無理矢理するものではなく湧き出てくるものだから、嫌気がさしてきたと言うことは、少し意識して調整しなさいと言うことなのだろうと思う。

 

母はわたしのスケジュールも熟知している。していないと気が済まないらしい。それもわたしの中で少し嫌気がさす点だ。なんだか監視されてるというか管理されてるというか、あなた1人じゃできないでしょ?と言われてるみたいな気がしてしまう。助かることもたくさんあるけど、例えば助けてもらえない状況になったところで学ぶものもあると思うので、可愛い子には旅させて欲しいなぁと切に願う。

そしてわたしは自分の娘には旅させようと思う。